2019年1月

2019年1月9日 私たちに今必要なのは一つの物事に集中し、その分野については完璧にまで仕上げることだ

 

 

 昨年、平成30年は流氷漂流にとって大きな変革の年になった。これまでほとんどなかった他のサークルの運営者との交流が増え、さらには一般の参加者の中にも流氷漂流を支援する人たちが出てくるなど、とても喜ばしい年になった。しかし、それでも他のサークルと比べるとまだ交流はわずかであり、事実、平成三十一年現在でもツイッターにおけるサークル代表者のフォロワー数(購読者数)は100にすら届いていないのが現状である。今後、流氷漂流がさらなる交流拡大、ひいてはツイッターにおけるフォロワー数の増大やピクシブにおける購読者数の増加を惹起するにはどのようなことを第一にするべきだろうか。

 ツイッターに於いて多くのフォロワーを集めている人を観察していると、まず目につくのが定期的に作品を上げているということである。作品を見せるということは、良いところや悪いところをすべて受け止める覚悟があるということに他ならない。もっと言うと同人誌を多く発行しているということもある。普段より絵や小説などの作品を発表し、一般の読者からの意見を取り入れてそれに従って改善を行う。さらに同人誌を定期的に発行し、一般支持者との交流を頻繁に持つということでより作品制作に対しての一体感を団体内のみならず一般参加者と共有するということで、初めて同人分野における信頼性、交流の多様性は実現できるのである。これに対して今までの流氷漂流は「忙しいから」、「もっと上達してから」などと理由をつけて努力や作品制作をかまけた結果、今でもほとんど人気を集めていないのだから、この理由はかなり痛いところだろう。

 次に、作品以外にも何か一つに夢中になっていることも挙げられるだろう。例えばリズムゲームを好んでいる人であったら、とことんリズムゲームの腕を磨き上げ、プログラミングに夢中になっている人であったら、競技プログラミングをとことんやりこんでいる。どんなに小さな分野でも、一つの物事に熱中し、さらにその道の専門家だと自負することができる程度にまで腕を磨き上げることで、その分野での交流が高まり、さらなる一般支持者とのふれあいの機会を持つことが容易になるだろう。これに比べて流氷漂流は言語分野の拡充を図ろうとしたら、さらなる教育分野の拡充など方向性が定まっておらず、何もかも平々凡々としてしまう傾向にある。平々凡々としたままだとかえって「何も特徴がない普通の人」と見られてしまい、ほとんど一般支持者を集めることがかなわなくなってしまう。

 最も考慮すべき部分は、何か誇る分野がないということである。どのような人でも「これだけについては自分の名刺代わりとして使うことができる」という分野があるはずである。事実、多くの経営者や政治家、各分野で活躍している人については誰しも「これこそが自分を代表するものである」というものを持っている。誇る分野があるということは、行動への自信へと結びつき、やがては対人関係に於いても何かしらの安心感をもって望むことができるのである。逆にそれがない場合、何も自信を与えるものがないため、対人関係でもあまり自信を持つことができず、交流の拡大になかなか結び付かない。その結果広がるはずのネットワークが広がらないという最悪の事態に陥ることになってしまう。

 以上のことから、流氷漂流に必要なのは、誇りにできる程度にまで何かに集中し、語れるものを作ることなのではないだろうか。流氷漂流が誇りに思えるものを持った時こそ、多くの人々と真に結びつくことができる日が到来する。

2018年1月

2018年1月13日 仮想通貨は少なからず私たちに対して何らかの影響を持ち続けるだろう

 

 

 流氷漂流は物品の購入などの資金決済に関して、ビットコイン等を導入することを決定した。これによって日本円や米ドルといった法定通貨のほかに選択肢が増えることになる。この仮想通貨を資金決済方法に導入することに決めた背景に、仮想通貨が持つ新しい可能性がある。

 仮想通貨は2008年にサトシ・ナカモトを名乗る謎の人物が9ページの論文を発表したことから始まることはすでにご存じの人も多いであろう。この論文によってP2Pシステムを基盤としたブロックチェーン技術が生まれることになり、その難改竄性からビットコインのみならず、電子カルテなどの多種多様な分野でこのビットコインの技術がつかわれるようになった。さらにビットコインの2100BTCという存在上限これを受けてビットコインに注目が集まるようになり、同じような性質を持つほかの仮想通貨(イーサリアムなどのアルトコイン)にも投資があつまるようになって現在に至っている。

 このビットコインの価格高騰に対して疑問を持ちかける人が多くみられる。その代表者が、投資会社のバークシャー=ハサウェイの会長であるウォーレン・バフェットだ。彼は「ビットコインは蜃気楼である」と発言し、容易に投資を行わない姿勢をとっている。さらには「ビットコインは悪魔の暗号である」ということを発言する人もいる。これに対して自分は少し疑問を抱かざるを得ない。

 確かにビットコインをはじめとした仮想通貨はあくまでもデータとしてしか存在せず、価値のないと考えている人にとっては、「紙くずになる」の慣用句にさえなりえない代物だというように考えるのはもっともである。しかし、現在ブロックチェーン技術が社会において実用化され始めてきているということにも注目したい。ブロックチェーン技術の難改竄性によって犯罪の発生を未然に防ぐことは実際にできてきていることは事実であるし、そもそもビットコインの存在を定義するサトシ・ナカモトの論文なくしてはこれらの防御は成しえなかったではないのだろうか。その点から推測するとビットコインがここまで注目を集めるのは妥当だといえるだろう。

 しかし、それでも一部の人々は「ブロックチェーン技術が素晴らしいことはわかっているが、オランダのチューリップバブルのようにそれ自体にそこまで価値があるようには考えられないために価格は落ち込むだろう」という予測を立てている。しかしここで考えてほしいのは「ブロックチェーン技術はチューリップとは違い、進化し続けていること」である。ブロックチェーン技術に関して多くのプログラマーたちは、より脆弱性をなくし、かつより迅速な情報処理ができるように日々研究を重ねている。そしてその研究の成果は仮想通貨の取引がより便利になることによって現れている。もし、この研究がいよいよ完全に行き詰まり、何も脆弱性が改善されない、もしくはブロックチェーン技術がこの世界で不要だと多くの人々が認めた時、ビットコインは今までのバブルと同様に値崩れを起こし、仮想通貨は無へと帰すだろう。しかし現に進化はし続けていることは事実であるし、ブロックチェーン技術は世の中で役に立っている。このことからビットコインはまだしばらくは注目を集め続けるだろうと考えられる。

 

 以上のことから自分はビットコインをはじめとした仮想通貨はまだしばらく何かしらの影響を持ち続けるだろうと予測している。もしこのビットコインがまた今までの経済現象と同じくバブルだったとしても、ビットコインがなかった時の時代に戻るということは決してないだろう。

2017年2月

2017年2月27日 「批判は対象人物の所属している所で短絡的にするな」

 

 よく公衆無線環境内で何かをやらかした人物が通う大学のことを批判したり、その人物が所属している会社などを非難することを人々がしているが、自分にはそのようなことが全く理解できない。なぜならその人物がその地位を得るためにどのようなことを行ってきたのかということを、批判を行う人物は全く知らないからである。

 多くの場合において、批判や非難というものは社会をよくするためには必要不可欠なものと受け止められている。例えば官僚社会を取り上げてみるとすると、1970年代には金権政治が主流となっており、多種多様な賄賂、そしてそのような体制を支える基盤となる団体など、多くの問題がはびこっていた。しかし、ロッキード事件、リクルート事件などの金権政治に関連する事件が発生し、国民からの批判・非難が発生した結果、公職選挙法などの金権政治を防止するための法律、さらにそれらを防ぐ機関の設立など、多くの面において改善がなされ、現在では金権政治はほとんどなくなったといっていい。この点において批判や非難は大きな力を持っているといえよう。

 しかし、出身大学や所属している会社を非難するというと少し問題が変わってくると思われる。そもそも大学や会社というものはただ単に「所属している」だけに過ぎないのであって、これが個人に悪影響を与えているとは必ずしも言えない。実際、東京大学を卒業して各業界で活躍している人もいるが、その正反対で犯罪を引き起こして逮捕され、刑務所で服役している人だっている。このようなことから「この人はどこに所属しているから駄目だ」と言うのはお門違いなのである。

 さらに多いのが、批判や非難を飛ばす先の大学や企業のことをよく知らずに批判や非難を行っているというケースである。大学受験を経験した人ならわかるとは思うが、公衆無線環境上で「普通の学校」とされている大学でも入学するのはとても厳しいものであって、世間で「普通の学校」というと公衆無線環境上では多く批判されていることが多い。このことから、批判を行う人はそもそもその実態をわかっていないケースが多いのではないのかというイメージがつく。実際、幼い子供がよく見る特撮物やアニメーションの悪役であっても、動機が分からないうちは「絶対悪」として観客はとらえるが、物語が進むにつれ、動機が分かると少し悪役にも同情心が生まれてくる。社会もこれと似たようなものなのである。

 もちろん、このようなことを挙げたとしてもなお反対意見は出てくるだろう。その例として最たるものが、悪は悪としなければならないというものである。例えば飲酒運転を行うことは、殺人に等しいので非難されなければならないというものだ。これと同じように、いち早く批判や非難されるべき対象は批判や非難されなければならないという論法だ。確かに見た目では道理が通っている。しかし果たしてその団体や個人は初めから「社会にとって悪影響となるようなことをしよう」と決心してやったのだろうか?意図的に「社会を貶めよう」と確信してその行為に臨んだのだろうか?多くの場合にとってその答えは「否」である。企業にとって失敗となった事業を起こそうと考えた人物も、はじめはその企業の利益になるものだと考えて始めたはずだ。このように、結果だけを見て短絡的にその人物や、その人物の所属する企業、学校などを非難するというのは間違いなのである。

 よって批判や非難を行う際ははじめにその団体や人物とはどのようなものなのかというものをよく知り、そのうえでどのような点を行わなければならなかったのかということを明確に自分の中で結論付けてからしなければならない。自分の中で問題点、改善点をはっきりとしたうえでの批判や非難は、社会にとってはとても参考となるものであり、その意見は有用なものとなるだろう。逆にただ短絡的に素早く非難を行うことは社会全体の新しい物事へ取り組む意欲の低下につながり、そして全体的な無意欲の遠因となってしまうだろう。